片山友希:自分自身を諦めない
ある演技は、演技というよりは、まるで実体験そのもののようだと感じられることがある。『FUJIKO』では、 片山友希 は、社会の周縁に追いやられながらも、自らの道を切り拓こうと決意する女性を体現している。戦後日本を舞台に、この映画は、貧困や喪失、社会的な偏見に直面しながらも、決して自分らしさを失わないシングルマザーの姿を追う。その結果、この物語は日本国内にとどまらず、ヨーロッパやアジアの観客からも深い共感と感動を呼び起こしている。
片山にとって、フジコとのつながりは単なる偶然以上のものだ。彼女は自身のキャラクターのように母親としての生活を送ったことはないが、家を出て一人で東京へ移り住み、信念だけを頼りに演技の道を歩んだという、その頑固なまでの自立心には共通点を感じている。自分を被害者だと見なさないという姿勢こそが、女優とキャラクターの間に感情的な架け橋を築いたのである。
この対談で、片山は自身の演技を形作った個人的な経験、映画が予想外に世界的な反響を呼んだこと、演技におけるリズムと身体表現の重要性、そして今も彼女のキャリアを突き動かす信念について語っている。東京での不確かな日々を乗り越えたことから、国際映画祭での成功後にゼロから英語の勉強を始めたことまで、彼女の物語は『FUJIKO』の核心にある精神――たとえ道がどれほど困難に見えても、前へ進み続けるという決意――を映し出している。
パンツ:BASE CALM、ベルト:GOODNEWSINTHEMORNING
不条理な現実に直面しながらも、自らの意志で未来を選び取ろうとするFUJIKO。演じるにあたり、最も共感された部分と、逆に「自分とは決定的に違う」と感じた境界線はどこにありましたか。
やっぱり違うところは、FUJIKOがシングルマザーであるという点ですね。私は結婚もしていないし子供もいないので、その環境は決定的に違うなと思っていました。
定してから台本ができるまで、約8ヶ月間ずっと改訂した台本をいただいていたんです。だから今回は役作りをしました、というよりは、ずっと台本をもらっていたからなくなったシーンや新たに増えたシーンもあって、何もしなくてもFUJIKOのすべてが分かった、というところはあります。
自分との性格の近さでいうと、近いと思います。「やってやるぞ」っていう。私も上京した身なので、そういうのは近いと思います。それが多分近いから、私がFUJIKO役に選ばれたんだと思います。
14歳で劇団に入り、20歳で上京されるなど、早い時期からご自身の意志で道を切り拓いてこられました。ご自身の人生の決断と、FUJIKOの生き様が重なる瞬間はありましたか。
その台本を読んだ時に、20歳で上京した当時のことを思い出しました。お金もなかったし、仕事もなかったし、友達も東京にいなかったんですけど、でもなんかここまで生きてこれたしなっていう気持ちがあって。だから自分の過去を悲観してないんですよね。
それをFUJIKOの台本を読んだ時に、すごく思い出したんです。子供を取られたりとか、お金がなかったり、シングルマザーっていう辛い状況があったけど、FUJIKOって全然悲劇のヒロインになってないじゃないですか。その感覚が自分と一緒だなと思って。
面接した時にその話を監督に言ったら、そういう人を求めてたって。そうやって悲観的にならない人が良かったらしいです。
本作に託された「女性の自立」というメッセージ、ご自身の人生において、「これだけは絶対に諦めない」と大切にされている信念はありますか。
女優さんになりたいって思ったことじゃないですか。
小学5、6年生の時、テレビに出たいってみんな思う時期あるじゃないですか。テレビに出るためには何があるやろと思った時に、アナウンサー、歌手、アイドル、タレント、女優って並べて。
勉強できないんでアナウンサーが消えて、歌は歌えないから歌手とアイドルが消えて、うまいコメント言えないなと思ったからタレントが消えて、女優が最後に残ったから「じゃあ女優になります」って言って。それで自分の意志でここまで来ました。
日本の「昭和」という背景や、シングルマザーを取り巻く厳しい空気感を知らない海外の観客にもこの映画は高く評価されました。どのようなところが共感を得たのでしょうか
多分、変わらないんだと思います。日本も世界もイタリアも。今は変わってきたのかもしれないけど、昔のシングルマザーに対する思いとか。
あとやっぱりイタリアはママが強いじゃないですか。FUJIKOのママも超強いじゃないですか。そういうのもあって、FUJIKOのママがイタリアですごく人気だったんですよ。お母さんのシーンですごくみんな笑ってたし。子供がやること、お花を取ってきたりとか、そういういたずらも大爆笑でした。
イタリアに10年住んでいた人が言ってたのが、こういう現実的な生きる苦しみを、時に感情を爆発させながら必死に生きる。必死だからこそ笑えちゃうっていう感じが、すごいイタリア映画っぽいって。だからハマったんだと。
ウディネはアジアの映画祭だったので、シンガポールの方とかベトナムの方とかも見に来てくださってて、みんなが号泣してて。
その一人のシンガポールの女優さんは、自分が女優さんになりたいと言ったら父親にすっごい反対されたけど、自分はそれでもなりたかったから父親の反対を押し切って今があるんですと言っていて。だからそのFUJIKOの「ちゃんと働きなさい」とか、そういう否定された人生が自分と重なったと言っていて、泣いてくださっている方もいました。
前衛的な音楽やカメラワークが生むスピード感と、声のテンポや、自転車を放り投げる動き、全力で走る姿。その高い身体能力が完璧にシンクロし、映画全体に疾走感があります。この躍動感は撮影時にある程度、想定して演じられていたのでしょうか。
友希:撮影中はやっぱりテンポは意識していました。
賭博のシーンとか、ご飯をパクッて食べるシーンとか、あれって全部リズム合わせなんですよ。お盆を持ってパンって机に置いて、サンドイッチを持ってパクッて食べてくださいっていう、全部あのテンポ通りなんですよね。
だから音楽合わせでそういうところを作っていたので、お芝居をしたっていうか、全部監督の考えですね。
冒頭のアニメのシーンも最初はなかったんですよ。でも日本はアニメが強くて、世界の人もアニメが好きなので、入れたら面白いんじゃないかっていうアイデアを監督が考えて、アニメを入れることになりました。
他にも外国でもクスッと笑えるユーモアあるシーンも、20年イギリスに住んでいた監督の、外国目線を知っているからこそできた采配でした。
編集者:
映画の音楽はBGMとして流れてくるものが多いけれど、『FUJIKO』は音楽が主役のようにシーンによって音楽がDJのように入ってくる感じがありました。加えて友希さんの声のテンポや、音域や発声の仕方が、映画の疾走感にさらに躍動感を与えたという風に感じました。手足の長さも演技に躍動感を与えていて映画全体にすごく疾走感がありましたよね。
友希:
音楽に関しては、監督はOASISが大好きでずっと聴いてきた方で、DJもされていたみたいです。ちゃんと遊んできた大人なんですよね。そういうのも大きいと思います。
声については、昔、演出家の方に「なんで君は全部同じところから声が出るの?」って注意されたことがあったんですよ。褒め言葉じゃなくて注意で。
人って、カフェに行ってこの距離での声とか、こしょこしょ話する時の声とか、遠くにいる人に対しての声とか、相手によって全部声が変わるじゃないですか。そこから声っていうものをすごく考えるようになりました。
出産シーンは、前のシーンも私のアップで終わって、次の出産シーンだったら私と同じ画角で同じ首の位置、同じ角度っていうので撮ったんですよね。だからポンって切り替えたら出産シーンになって、バーって後ろに引くっていう、
その撮影方法がまず面白かったから、これは絶対に120パーセントの声でやった方が面白いと思ってやりました。
タンクトップ「CARNE BOLLENTE」、パンツ「ROTOL」
本作の舞台である昭和には、どのような共感や親近感を覚えますか?
今はすぐ調べたらなんでも出てくるじゃないですか。だからそんなに遠いものでもなかったですし、
私も20代前半の時はヴィンテージの服とかが大好きだったのでよく着てたんですよね。逆に多分、今の人たちは昭和に憧れを持ってると思います。楽しそうとか、SNSがなかったりとか、スマホがなかったりとかして、それはそれで不便なことですよね。でもすっごい楽しそうってきっとみんな思ってると思います。
やっぱりFUJIKOはその服と美術がすごく良かったっていうのがあって、全部かっこいい、ちゃんとおしゃれな美術セットだったし。
服も日本のドラマとか映画って、主人公がシーンごとに全部違う服を着ることが多いじゃないですか。だけど実際、人ってそんなに服を持ってないからみんな着回しをするじゃないですか。FUJIKOは同じジーンズを履いてたりとかっていうのがすごくリアルだったので、そういう意味でもFUJIKOの世界観に入りやすかったっていうのが大きいです。
時代が変わっても「変わらない人間の本質」はどういうところだと思いますか?
やっぱりご飯を食べるっていうことじゃないですか。ご飯を食べてエネルギーをもらうっていう。FUJIKOは結構ご飯もテーマになっていると思うので、ご飯を食べる、食べさせてくれるとか、ご飯を作る、なんかやっぱりご飯でつながるものってあるんじゃないのかなと思いました。
イタリアで初めて上映した時にスパゲティをすすってたから大丈夫かなとかって思ってたんですけど、大丈夫でした。
イタリアで初めて上映した時にスパゲティをすすってたから大丈夫かなとかって思ってたんですけど、大丈夫でした。
ただ、日本人って口にものを入れたまま喋らないとか肘はつかないとか教育を受けて育ってきたから、お芝居する時にみんなお上品なんですよ。結構みんな食べてないでしょ、ご飯のシーンなのに。それがすっごい私は気持ち悪くて、すごく嫌いで。
私は食べるようにしてるんですけど、岸本加代子さんがエビは脱皮を繰り返すだって言ってバクバク食べてたじゃないですか。やっぱその先輩の姿を見て、そうだよなと思って。やっぱり食べながら喋るよねと思って。
私もリリーさんとのシーンもそうだし、他のシーンもそれでいっぱい食べたっていうところがあります。
この映画を特にどのような方々に届けたい、あるいはどのように受け取ってほしいと感じていますか。
この映画のプロデューサーのMEGUMIさんが、日本は女性の自己肯定感が低いから悲しくて、自ら人生を切り開いていく女性にフォーカスした映画を作りたかったっていうのと、
監督が自分のお母さんの話を作りたかったっていうのがあって。女性にフォーカスした映画だけど、実は男性を批判してる映画ではないんですよね。やっぱり男性にも助けてもらえてたし、女性にも助けてもらえてたしっていう。
だから女の人にぜひ見てほしいですっていうわけでもないです。見てほしい人って言ったらみんなに見てほしいです。
「これで役者としてやっていけるな」という確信や手応えを掴んだのは、いつ頃でしたか。
明確にこれまで女優をこれでやっていけると思ったことは一度もないんですが、
でも『茜色に焼かれる』という映画に出会って、それが初めて怖いと思ったんです。自分は今まで台本を覚えて、セリフを覚えて、現場に行って、喋って、カット、OK、いいねっていう、私これでいいのかなってすごい思ってたんですよ。
『茜色に焼かれる』の風俗嬢のケイちゃんっていう役をいただきました。今の自分にはできないんじゃないかとか。監督が手を広げて待ってくれているけど、そこに飛び込んでいけない自分もいて、帰りの電車で泣いたりとかしてて。
で、最後ケイちゃんは自殺してしまうんですけど、その撮影が終わっても、ケイちゃんの「なんで生きてんのかわかりません」って答えるセリフが、自分もわからないなと思って。そのセリフがすっごい怖かったんです。
けど公開してから、だんだん良かったよって言ってもらえる声が増えて、自分を少しずつ肯定できるようになった時に、東京で震度5くらいの地震が起きたんです。
私は初めて一人で大きな地震を経験して、怖くて、「絶対に死にたくない」と思ったんです。
その時に、これからたくさん映画をやっていこう、ちゃんと女優としてやっていこうって決めて、それが2021年でした。
ただ、自分が映画をやりたいって思ってから、3年間、映画の仕事が何も来なかったんです。
自分が3年間、映画の現場に行けなかったっていうのはすごく大きな出来事だったと思います。これがトントントン拍子に自分がやりたい仕事ができて、それでFUJIKOができるってなっていたら、多分ここまでできなかったと思います。
次なるステージへと向かう今、『ZERO』という言葉は、一体何を意味しますか。
私、今ゼロから英語の勉強し始めたんですよ。ほんと1週間前に。
その理由はウディネに行った時に、FUJIKOのセールスの女性に「ゆきちゃんの芝居は絶対日本人じゃないから英語勉強した方がいい」って言われて、
私は素直なので、イタリアから帰国してその日に申し込みをして、1週間前から英語を始めて、今、泣きながら勉強してるんですけど。
でも2年前に韓国語を勉強し始めたんですね。その一番初めの韓国語のノートを見た時に、ハングルもぐちゃぐちゃだし、もう何書いてるかわかんなかったんですよね。
「あ、そうよな」って思って。勉強したいから勉強するし、わからないから勉強するのであって、
こうやってゼロから韓国語、英語を勉強するのって、全然できないから勉強するんだもんなって自分に言い聞かせて。韓国語もゼロから勉強して、今少し喋れるようになってきて、韓国のお仕事も増えてきてるから。
だから自分も英語を勉強して、今日の撮影みたいに、もっともっと海外のクリエイティブなアーティストの方とお仕事できたらいいなってすごく思います。
私にとって「ZERO」とは、新たな場所へたどり着くために、最初からやり直す覚悟のことです。